LEICA M M3と一眼レフ レンジファインダーの歴史上の敗北

ライカM レンジファインダーの敗北のカメラ史

前の02のライカM ライブビューとEVFでレンジファインダーの欠点を克服の記事からの続きです。

ライカ M(Typ 240)の前機種がM9だったのに、後継機がM10ではなくMになったのが、LEICA Mの特徴をあらわしています。カメラの名称には、今までのカメラ史を見ていくと、そこに只ならない思いがあります。ドイツのライカのレンジファインダー機がカメラ界で絶対的な位置に付いていたのを、日本のカメラメーカーのニコンとキヤノンなどが一眼レフでカメラ界をリードして王座の地位に着いたのは、ドイツのライカのレンジファインダー機には勝てないことを悟ったからです。

ライカのレンジファインダー機と言えば、フィルム時代のライカM3です。ライカM3は、1954年の4月3日から西ドイツのケルンで開催された第四回目のフォトキナで発表されました。ライカM3は当時のレンジファインダー機の性能を大幅に向上したもので、その時に、日本のカメラメーカーは、これはもうライカのレンジファインダー機には追いつけないと悟ったのです。日本のカメラメーカーは今では世界の王座の位置で、ドイツのレンズも日本のメーカーが作っています。ですが、1954年当時は日本のカメラメーカーはドイツに追い付け追い越せで、ライカの背中を必死に追いかけていました。そうして、何とかライカのレンジファインダーにも追い付けたかと思っていた時に出てきたのが、ライカM3でした。

日本のカメラメーカーはライカM3があまりに性能がよすぎたためにレンジファインダーより、他の手段でカメラの魅力を引き出そうとしました。それで生まれてきたのが、日本のカメラメーカーの一眼レフです。ライカM3の後に発売されたニコンFが世界中を圧倒してその後に一眼レフがカメラの王道になったのは、ライカM3があまりに高性能なレンジファインダー機だったために、ニコンなどの日本のカメラメーカーがレンジファインダーより一眼レフに注力するようになったからです。

その後、ドイツのライカは日本のカメラメーカーの一眼レフの幾重にも渡る性能の進化、AF機能の進化などに付いていけずに、カメラ界の王座の地位から退いていきました。ライカMには1954年当時に発表されたそのM3の性能が引き継がれています。そして、そのM3でレンジファインダーの限界であった欠点をライブビューで克服したのです。ライカM10にしないでライカMにしたのは、ニコンのF初代機がF1ではなくFにしたことも思い起こされます。

ライカMは長く使えるために、後継機が出ることをすぐに思い起こさせる数字をなくしたのではないでしょうか。ライブビューで新たに始まったM型ライカの歴史を数字なしのMという型番に込めています。ライカMは(Typ 240)とTyp240とありますが、この数字が今後は変わっていって、ライカMは同じ型番のままのようです。LEICA Mでライブビューを搭載したその原点の型番を継承して、性能をさらに改善していくということでしょうか。

次の04のライカMの画質と高感度ノイズの記事に続きます。

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